【中村妃智選手インタビュー】 第1回:幼稚園の時の夢がオリンピック選手だったことが発覚!

 

2013年8月からエリート強化指定選手となり、東京2020オリンピックでも活躍したHPCJCの中距離アカデミーチームメンバーの中村妃智選手が、今月をもって競技から引退することとなりました。
中村選手はHPCJCが今の形になる前からナショナルチームの一員で、山あり谷ありだったHPCJCの中距離チームを引っ張ってくれてきた選手。その中村選手へのリスペクトと感謝の気持ちを込めて、中村選手のここまでの自転車人生とHPCJCとの関わりを伺ったインタビューを全5回でお届けします。

 

第1回 : 幼稚園の時の夢がオリンピック選手だったことが発覚!
第2回 : 周りの人には恵まれてきたなとは思います。
第3回 : 前日は瞑想を聞きながら寝るのがルーティン。
第4回 : HPCJCができてラスト2年で一気に加速した。
第5回 : 今は自分が3人ぐらいほしい。

 

第1回:幼稚園の時の夢がオリンピック選手だったことが発覚!

 

Q:日本代表を引退された後は、千葉250(TIPSTAR DOME CHIBA)を活動の中心にされていきそうな感じですね。

 

そうですね。千葉県の高校生が、千葉競輪場が500mだった頃から練習に来ていたので、来年から入ってくる高校生たちや千葉県の子供たちもちょっと教えてはいきたいなと。
教えるというか、学校の先生たちも250mを走ったことがないので、先生たちと一緒に千葉県の強化もできたら、そこをお手伝いできたらいいなと思ってます。

 

 

Q : それは千葉県の教育委員会とかそういうところからの依頼で?

 

所属するJPF(旧社名は日本写真判定株式会社)の仕事といいますか、もともと自転車競技の普及活動を実施していて、今後は選手の育成事業もしていきたいと思っているので、平日は高校生をターゲットにした放課後の練習を見たいと思っています。
また、卒業した大学、日体大も練習に来るようになるので、学生が来たときは千葉250で練習見て、っていうような感じで平日はやっていきたいなと。

 

 

Q : そういう意味では、すごいタイミングで千葉250ができましたよね。

 

そうですね。今までの人生、結構タイミングには恵まれていて。
特にすごい悩み続けて何かを決定してきたというよりも、直感的に「これやろう」みたいな、「じゃあ、分かりました。行きます」みたいな感じでした。

 

 

Q : 自転車との出会いも、それに近かった?

 

はい。自転車部に誘われるがままに入り。本当は陸上部か、バスケ部に入りたかったんですけど。

 

 

Q : じゅあ、中学は1個だけじゃなくて、クラブはいくつか掛け持ちでやってらっしゃった?

 

小中学生の頃はバスケ部に所属していて、走るのが得意でした。幼少期から競泳もずっとやり続けていました。体力には自信がありました。結構負けず嫌いで、走る練習とか、体力測定とかのシャトルランとかも絶対に負けないって思ってやってました。シャトルランも、最後、男子と1対1になることもあって、女子の応援を一身に浴びるのに喜びを感じていました(笑)

 

 

Q :「妃智、がんばれ」みたいな。

 

「妃智、負けるな」みたいな。当時、男子もまだ成長期途中じゃないですか。まだぎりぎり戦うことができたんです。走れる男子と1対1の戦いとかになった時に、更にやる気があがって。

 

 

Q : 走るのが得意だったっていうのがベースにあられた。

 

はい。水泳もずっとやっていたので、体力は結構あったのかなと。

 

 

Q : もともとご家族がスポーツ好きというか、ご両親がスポーツやられていたり?

 

二人とも、もともとスポーツ好きで、父もいろいろやっていたんですけど、母が強豪校でバレーボールやっていて。高校か大学では、ソフトボールもやって。母が一番動けたかもしれないですね。ずっと運動をやり続けていました。

 

 

Q : バレーボールでもソフトボールでも活躍できるぐらい、お母さまが運動に対する高いポテンシャルをお持ちだったんですね。

 

はい。当時、自分がリレーの選手に選ばれたりしていましたが、走る事でも母にずっと勝てなかったです。

 

 

Q : ちなみに、妃智さんってご兄妹はいらっしゃいしますか。

 

妹がいます。妹のほうがポテンシャル高くて。多分、彼女が自転車やっていたら負けていたと思います。妹もバスケと水泳をずっとやっていて、さらに空手もやってて、高校から陸上を始めました。妹が陸上始めました(笑)

 

 

Q : じゃあ、中村家は運動一家ですね。

 

そうですね。小さい頃から、オリンピックがあると必ずみんなでテレビで見ていて、深夜でも母が興奮して家で叫んでいたりとか(笑)。それで自分も一緒にオリンピックは見ていました。

 

 

Q : オリンピックっていう存在は小さな頃から分かっていて、ちょっとすごいところなんだなという印象はお持ちだった?

 

そうですね。その時、水泳もやっていたので、幼稚園の時の夢がオリンピック選手だったことも発覚しました。最近知ったんですけど、小学校の時の友達のみんなからメッセージが送られてきて、その時に自分が書いた小学校の卒業文集の写真が貼ってあって、その時に「自分がオリンピック選手になる!」って書いてあって、小学校でもオリンピックを夢見ていたんだなと最近思い出したんです。

 

 

Q :「私、書いてたっけ?」みたいな。「実現してんじゃん」って。

 

「実現したわ」みたいな(笑)「書いてたんだ」みたいな。なんだかんだ意識はしていたのかなと。でも、中学・高校で現実を見ました。

 

 

Q : まあ、そうですよね。でも、結果、高校で自転車に出会い、結局、今度は本当に目指すことになられた。初めて自転車に乗ったら楽しかったと伺いました。

 

そうですね。真っ直ぐのところをママチャリでしか走ったことなかったんですけど、高校で初めて乗ったのがもう競輪場だったんですよ、ロードとかじゃなくて。

 

 

Q : バンクだったんですね。

 

近くにバンクがあるような、もともと競輪の強豪校だったんです。監督は元々自転車競技をやっていましたが、その後は競輪の実況もやっていた方で、競輪もとても詳しくて。自分は最初は短距離で、500mを初めて測定した時も、初めて走ったにしては結構いいタイムが出たので、「これはいけるぞ」みたいな感じだったんです。ただ、当時はひとつの学校から「中距離」と「短距離」に1人ずつしか出れないルールで。女子部員は二人だったんですけど、先輩の専門が500mだったんです。で、その先輩が本当に速くて、勝てなくて、自分はもう必然的に中距離に行くしかなくて。

 

日体大時代の中村妃智選手

 

Q : さっき「結構、私、運がいい」っておっしゃった時に、第一志望じゃなくて、第二志望に行ったっておっしゃったのは、その高校に行ったおかげで自転車出会ったっていう意味で、振り返って考えた時に、それは自分はちょっと持ってるなっていうのを思ってらっしゃるっていうことですよね。

 

そこもいい出会いだったのかなと思いました。その高校に行ってなかったら競泳か水球かバスケを始めてましたから。自転車始めて、短距離じゃなく、中距離をやらざるを得なくって、中距離をやり続けて、有難いことにいくつかの大学に誘われてたんですけど、自分は体育関係の仕事にも就きたいと思っていたので日体大を選びました。そしたら、その在学中に東京でのオリンピック開催が決まって。

 

 

Q : 日体大は自転車競技が強いですもんね。

 

女子は結構強かったです。自分たちも総合優勝を目指してたんですけれども、当時、鹿屋体育大学がめちゃめちゃ強くて。ナショナルチームに召集されている選手ばかりいて、なかなか勝てず、ずっと総合2位が続いてました。でも、自分が4年生の代でやっと総合優勝を獲ることができました。

 

 

Q : すばらしい。

 

やっと日体大、取れたっていう感じでしたね。

 

 

明日に続きます